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	<title>月形歴史物語</title>
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	<description>月形の歩みから、北海道に大切なことが見えてくる</description>
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		<title>監獄の廃監とその後の月形-1 監獄のまちから田園農村へ</title>
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		<pubDate>Thu, 02 Feb 2012 10:41:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[月形潔典獄のもと、1881（明治14）年８月に内務省所轄で開庁した樺戸集治監は、このブログで何度かふれたように、国の行政組織変更に伴って何度もその名称を替えました。北海道庁が発足した1886（明治19）年には道庁長官の所 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
月形潔典獄のもと、1881（明治14）年８月に内務省所轄で開庁した樺戸集治監は、このブログで何度かふれたように、国の行政組織変更に伴って何度もその名称を替えました。北海道庁が発足した1886（明治19）年には道庁長官の所管となりましたが、　1895（明治28）年にはふたたび内務省の施設となります。しかしそれも１年経たないうちに、植民地統治を担う拓殖務省が設置されると同省の管轄に。拓殖務省が翌年に廃止されるとまた内務省に属し、1900（明治33）年からは司法省所管となりました。近代国家として歩みはじめた日本の仕組み自体が、まだ流動的であったことがうかがえるでしょう。
</p>

<p>
1903（明治36）年、司法省の集治監制度が廃止となりました。これにより樺戸集治監は、特殊な監獄ではなく、「樺戸監獄」という一般の行刑施設となります。そして大正期に入り、1919（大正８）年１月、勅令によって樺戸監獄はついに廃監となります。月形村開村のきっかけとなった監獄は、39年間にわたる役割をここに終えたのでした。
</p>
<p>
翌1920年２月、1916（大正５）年から旭川にあった札幌監獄旭川分監が旭川監獄に昇格。樺戸監獄にかかわるすべての事務がそこに引き継がれ、囚徒たちも旭川に移されました。
</p>
<p>
この1920年は、集治監設置から40年、つまり開村40周年。村では役場庁舎を、それまでの監獄庁舎に移転しました。
</p>

<p>
廃監にいたった背景には、さまざまな要因がありました。明治の後半から、かつては和人の未踏地であり、そのことが集治監設置の大きな理由であった月形一帯にも、しだいに一般入植者や商店などの集積が進みます。これらはおのずと、重罪人を収容する監獄の業務とは軌を一にするものではありません。また政情が次第に安定して政治犯が減少し、さらに各地に監獄が整備されて囚徒が減ったことや、過酷な外役の事故への批判が強まったこともあり、監のあり方が問われるようになっていったのです。
</p>

<p>
廃監当時の樺戸監獄には、39年の歴史で開いた広大な田畑や施設群、そして林地などが財産としてありました。囚徒たちが開いた水田は約50haで、畑は223ha。本監や出張所の敷地その他を合わせると、樺戸監獄にはおよそ5,000haを超える広大な土地があったのです。東京の山手線の内側の面積（約6,300ha）のおよそ８割にもあたる広さですから、ひとつの施設が抱えていた財産として、そのスケールに驚かされます。
</p>

<p>
さて廃監後、この厖大な財産の行方はどうなったでしょう？
</p>
<p>
月形村では、役場や議会、村民を巻き込んだ議論の中で、２つの考えが打ち出されました。すなわち、すべてを国から村に払い下げてもらうべきだという意見と、役場ではなく村民が直接譲り受けるべきだ、という考えです。対立した２派は、それぞれ司法省への陳情に上京するなど活発に運動。またそのさなかに監獄所有の土地が司法省から内務省に移管されるなど、事態は混乱を深めました。結局当初２年間は、村が借用して力のある有志が作付けなどを行うことになります。
</p>
<p>
そして1921（大正10）年には、金森保太郎や石本熊一郎といった実力者や、新宮商会、三井合名株式会社などの有力企業に、数百haの単位で分割されていきました。
</p>
<p>
監獄の巨大な建物群はほとんどが売却、移設され、村には倉庫や官舎、典獄住宅の一部などが残されただけでした。また監獄で使われた家具や膨大な道具などの財産は競売にかけられ、これを求めて数十名の古物商が全道から集まりました。
</p>

<p>
1899（明治32）年、今日の農協（JA）の源流に位置づけられる農会法が公布され、日本各地に農業団体の「農会」が誕生します。月形では役場に農会の事務所が置かれ、農業技術者も配置されました。初代の会長には、月形潔と同郷（福岡県）でその腹心の部下だった海賀直常が就任しています。その10年後、1909（明治42）年には新田開発のために月形村用水土功組合が発足。これも海賀が組合長に就きました。
</p>

<p>
監獄農場とは別に月形で民間人による開拓が本格的にはじまったのは、1887（明治20）年、北越殖民社（新潟県で発足）の晩生内（おそきない）への入植から。同社はやがて野幌地区（現・江別市）の開墾に集中することになりますが、太古から石狩川が運んだ肥沃な広野に恵まれた月形は、しだいに入植者を集め、山岳地帯にかけての天然林では木材生産も広がっていきました。
</p>
<p>
集落が形成されるようになると、監獄ばかりでなく開拓民相手に日用品や雑貨を扱う商店もでき、やがて役場や郵便局、小学校。巡査駐在所などを中心として商店が並ぶようになります。今日の国道275号の源流となる街道沿いなどには。新開地らしい街並みが生まれていきました。
</p>

<p>
月形で酪農がはじまったのは、樺戸監獄が廃監となった1919年ころ。こうした民間の入植者たちは、開墾のあいまを見て道路工事の現場仕事や冬場の造林（木材伐採）の仕事に従事しました。やがて1930（昭和5）年には北海道製酪販売組合連合会（のちの雪印乳業）の月形工場が開設され集乳を開始。酪農は地域の基幹産業に育っていきました（同工場は1964年まで操業）。
</p>

<p>
月形の発展に重要な役割を果たしたのが、1935（昭和10）年、札沼線の開通です。
</p>
<p>
札幌から石狩川右岸に鉄道を、という運動は、すでに明治の末にはじまっていました。「石狩川右岸七個村及一区連合鉄道速成同盟会」という団体が発足し、初代会長には、ここでも月形の海賀直常が就任しています。石狩沼田（雨竜郡）から敷設工事がはじまったのは、ようやく1927（昭和2）年。そこから浦臼までは1934年に開通し、翌35（昭和10）年秋には札幌の桑園から月形を経て石狩沼田に達する、約111キロに及ぶ全線が開通。月形には、石狩月形駅と札比内（さっぴない）駅のほか、保線区や通信分区の施設も設置されました。
</p>
<p>
1891（明治24）年の月形村戸長役場設置、そして1906（明治39）年の村制施行以来の悲願だった鉄路の実現によって、月形は監獄のまちから農業のまちへと、大きく舵を切ったのでした。
</p>]]></content:encoded>
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		<title>月形にちなむ偉人たち-2</title>
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		<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 23:59:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[石川啄木と月形を結ぶもの 貧困と孤独のうちにわずか27歳で生涯を終えた石川啄木は、国民詩人とも称され、日本人の心に末長く響く詩歌をつづった文学者です。今年2012年は、ちょうど没後100年。ゆかりの地でさまざまな行事も計 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>石川啄木と月形を結ぶもの</h4>

<p>
貧困と孤独のうちにわずか27歳で生涯を終えた石川啄木は、国民詩人とも称され、日本人の心に末長く響く詩歌をつづった文学者です。今年2012年は、ちょうど没後100年。ゆかりの地でさまざまな行事も計画されています。実は月形も、啄木には浅からぬ縁がありました。郷土史家熊谷正吉さんの研究などをもとにまとめてみましょう。
</p>

<p>
石川啄木は1886（明治19）年、岩手県南岩手郡日戸村（現・盛岡市）に、曹洞宗の僧侶の長男として生まれました。一家はすぐ渋民村（同）へ移り、彼が小学校にあがると盛岡市内に転居。盛岡中学時代に彼は与謝野晶子らの短歌に傾倒し、上級生や級友の影響もあって文学への志を抱きます。しかし成績がふるわないことなどから退学勧告を受けて中学を退学。文学で身を立てることを決意して上京しました。英語学校に通いながら文学者らと交わりましたが、就職ができず肺の病もあって失意のうちに帰郷しました。
</p>

<p>
しかしやがて雑誌「明星」に投稿した短歌が評価されるようになります。1904（明治37）年の秋には婚約者堀合節子と北海道を旅行しましたが、これは小樽駅の駅長が義理の兄（次姉の夫）だった縁によります。ところが故郷では、父親が宗費滞納のために村を追われ、一家は苦境に追い込まれてしまいました。
</p>

<p>
1905年、第一詩集「あこがれ」を自費出版。節子と結婚した啄木は一家の暮らしを支えるべく、1906年に渋民尋常高等小学校に代用教員の職を得ます。このころから小説や評論をさらに積極的に書きはじめますが、翌07年５月、函館の文芸結社との交遊が生まれたことから北海道での新生活を求め、単身で函館に渡りました。
</p>

<p>
当初は函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てた啄木ですが、やがて弥生尋常小学校の代用教員となりました。21歳でした。この小学校は、校区に函館区公会堂や旧イギリス領事館、中華会館などを抱える函館山の麓、西部地区にありました。その後小説家の久生十蘭や牧逸馬（林不忘、谷譲次の別名も有）、文学者亀井勝一郎、喜劇役者の益田喜頓らの出身校ともなった函館有数の伝統校です（2009年度に函館西小学校と統合）。
</p>

<p>
啄木の日記には、弥生小学校に職を得たことが次のように書かれています。<br />&nbsp;
</p>

<p style="font-weight:bold;padding-left:1em;">
六月十一日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち十二円なりき、職員室には十五名の職員あり校長は大竹敬蔵氏なりき、児童は千百名を超えたり
</p>

<p style="font-weight:bold;padding-left:1em;">
職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五名のうち七名は男にして八名は女教員なりき、予は具（つぶ）さに所謂（いわゆる）女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり<br />&nbsp;
</p>
<p>
一方で８月に彼は、函館日日新聞記者の仕事もすることになります。新聞社では「月曜文壇」「日々歌壇」といったコーナーを企画する一方で遊軍記者としても活動を開始しました。啄木は代用教員を辞めて、記者一本で暮らすつもりでした。しかし記者になってわずか１週間後。その後ながく語られることになる大火が函館を襲います。弥生尋常小学校や函館日日新聞をはじめ市街地の半分以上、40万坪20カ町を焼く大難でした。彼は焼け出されるように函館を出ました。その後は札幌、小樽、釧路へと放浪するように、短い新聞記者生活をつづけながら、たくさんの歌を詠（よ）んだのです。まさにこの生き方が、漂泊の詩人です。<br />&nbsp;
</p>

<h4>校長は、越後から月形に渡った大竹敬蔵</h4>

<p>
さてここから話はようやく月形にちなみます。
</p>
<p>
函館の弥生尋常小学校の教壇に立った啄木を見守った校長は、日記にもあった大竹敬蔵で、この人物の実家は月形村（当時）にありました。大竹の出身地は越後で、彼は、前回のこのコラムで紹介した、連合艦隊司令長官山本五十六元帥の実兄である高野譲と同郷だったのです。大竹は兄弟両親ともども北海道に渡りましたが、そのきっかけは、月形にいたこの高野の招きによるものでした。一家は現在の月形町八重垣町に暮らしました。
</p>
<p>
敬蔵の兄の涼司はまず樺戸集治監の看守になり、のちには看守長と同等格の上級職、書記になっています。また弟の義近は、集治監の第三代典獄大井上輝前（1891年から４年間在任）に見込まれて養子に入り、のちに理学博士、北大理学部助教授となりました。兄弟はみな優秀な資質の持ち主であったことがわかるでしょう。
</p>
<p>
郷土史家熊谷正吉さんは、弥生尋常小学校で大竹敬蔵校長は、啄木の才能を見抜いていたのではないか、と考えています。
</p>
<p>
「啄木の奔放な生き方は北海道時代に限らずよく知られていますが、函館時代も、しばしば無断欠勤をして新聞社の仕事をしていたようですね。しかし大竹は彼をクビにしなかった。寛大で温情あふれる態度で接したといわれます。啄木も大竹の人としての大きさを、感じ取っていたのではないでしょうか」
<br />&nbsp;
</p>

<p>
もうひとつ、啄木のこの弥生尋常小学校時代の名高いエピソードがあります。代用教員の同僚だった橘智恵子（たちばなちえこ・1889～1922）との出会いと別れです。
</p>
<p>
北海道庁立札幌高等女学校を卒業して函館に来ていた橘智恵子の実家は、札幌の元村（現・東区）にあるリンゴ園でした。啄木は日記の中で智恵子を「真直（ますぐ）に立てる鹿ノ子百合」と表現し、妻子ある身ではありますが強く惹かれました。1910（明治43）年に出版された歌集『一握（いちあく）の砂』には「忘れがたき人（二）」という節がありますが、ここにある22首の歌はすべて、智恵子を詠んだものだったのです。代表的なものを一首あげてみましょう。<br />&nbsp;
</p>

<p><b>
石狩の都の外の君が家<br />
　 リンゴの花の<br />
　 散りてやあらん<br />&nbsp;
</b></p>

<p>
智恵子はその後北村（現・岩見沢）開拓のリーダーのひとり、北村謹（きん）と結婚しました。啄木が出版したばかりの歌集『一握の砂』（1908年）を送ると、礼状には嫁ぎ先の牧場で作られたバターが添えられていました。
</p>

<p>
啄木は釧路を最後に北海道を離れて上京し、1909（明治42）年の早春には東京朝日新聞の校正係となります。そのころローマ字で書いていた日記には、次のような記述があります（1909年４月９日。以下は日本語で表記）。<br />&nbsp;
</p>
<p style="padding-left:1em;font-weight:bold;">
智恵子さん！　なんといい名前だろう！　あのしとやかな、そして軽やかな、いかにも若い女らしい歩きぶり！　さわやかな声！　二人の話をしたのはたった二度だ。一度は大竹校長の家で、予が解職願いを持って行った時。一度は谷地頭（やちがしら）の、あのエビ色の窓かけのかかった窓のある部屋で――そうだ、予が「あこがれ」を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。<br />
　ああ！　別れてからもう二十ヶ月になる！<br />&nbsp;
</p>
<p>
啄木が智恵子とはじめて親しく言葉を交わしたのは、彼が小学校を辞する決意を告げに訪れた、大竹敬蔵校長の家でのことだったのです。
</p>]]></content:encoded>
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		<title>月形にちなむ偉人たち-1</title>
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		<pubDate>Wed, 30 Nov 2011 23:55:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[今回は、ふたりの看守長にちなむ人物誌です。 洋画家 上野山 清貢（うえのやま きよつぐ） 洋画家の上野山清貢は、苦節の時代を経て帝国展覧会（帝展）に初入選（1924年）するやその後連続して特選をとり、栄えある無鑑査出品作 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今回は、ふたりの看守長にちなむ人物誌です。</p>

<h4>洋画家 上野山 清貢（うえのやま きよつぐ）</h4>
<br />
<p>洋画家の上野山清貢は、苦節の時代を経て帝国展覧会（帝展）に初入選（1924年）するやその後連続して特選をとり、栄えある無鑑査出品作家となった、本道出身画家の代表的存在のひとりです。</p>
<p>上野山は、1889（明治22）年、江別村（現・江別市）の生まれ。父は官吏で、清貢が小学生のときに樺戸集治監（当時の名称は北海道集治監樺戸本監）の看守長として月形に赴任したので、家族で月形に移り住みました。清貢は月形尋常高等小学校に転入して、同校を卒業しています。</p>
<p>
1909（明治42年）、代用教員として札幌の小学校に勤めながら、同志と「エルム画会」を結成。画家への夢絶ちがたく、1912年に上京すると太平洋画会研究所に学び、黒田清輝らの指導を受けました。貧しい生活の中で、絵画への精進の日々がつづきます。<br />
　1915（大正４）年には札幌出身の新進女流作家である素木（しらき）しづと結婚しましたが、しづはほどなく結核に倒れ、息を引き取ります。結婚生活はわずか２年ほどで終わってしまいました。1920年に再婚し、変わらぬ貧しさの中で制作をつづけた結果、1924年、念願の帝展初入選を果たします。35歳という、遅咲きの栄誉でした。<br />
　以後は1930（昭和５）年に帝国美術院会員になるなど、大家への道を歩みました。
</p>
<p>
初期の作品はとりわけ、力強いタッチからゴーギャンに比較されて評価され、上野山自身もゴーギャンへの思いを胸に南洋諸島を旅して、画業の糧としたこともありました。雄大な風景やアイヌ民族など、北海道ならではのテーマにも積極的に取り組みました。戦後は全道展の創立にも力を尽くしています。<br />
　月形には、月形樺戸博物館や月形小学校などに上野山の作品が所蔵されています。
</p>
<p>
1960年に彼が没する10年前、1950（昭和25）年に月形町役場から発行された『樺戸監獄史話』（寺本界雄）には、月形での少年時代を回想した上野山の随筆があります。少し抜粋してみましょう。
</p>
<p>
「石狩川の湾曲部が大きく鍋ヅルのように平原を流れて、月形村を抱くように包んでいるかのようであった。夕方など監獄の裏山の低い円山に登って此の平野をながめると三カ月形の流れににぶい陽があたって流れの速さなど全くわからず、静かな半月のようにたまらなく少年の心をそそったものである。月形村というのはこれから出たのかと考えたりしたことがある」
</p>
<p>
「江別まで通う外輪の蒸気船があった。これがまたひどく古風な趣を添えていた。むしろエキゾチックなものだった」
</p>
<p>
「監獄の西北に小さな沼があった。この沼に赤どじょうが棲んでいた。鰌（どじょう）の色は、一寸囚人の赤い着物の赤色があせたような色をしていた。監獄の池だから鰌まで赤いベベを着ているなど（※）いい伝えられていた。南京玉を二ツくっつけたような黒い目が異様でうす気味悪かった。<br />
冬が来て、此の沼が氷り（※）はじめるとここで氷辷（すべ）りをやった。毎朝早く氷の上にパラパラとふりまかれたような、霰（あられ）雪を箒（ほうき）ではいて、鏡のようにスベスベ光る、艶のある氷を辷る楽しさは、月形での少年時代のたのしいたゞ一つの思出（※）のものである」（※は原文のママ）
</p>
<p>
この赤いどじょうの話について郷土史家の熊谷正吉さんはこう言います。<br />
「吉村昭先生が樺戸集治監を題材にした『赤い人』で描いたように、囚徒たちはつねに全身赤い囚服を着せられていました。だから囚徒たちは赤どじょうを、脱獄に失敗したり過酷な労役で死んだ仲間の化身だと考えました。死んだ囚徒がどじょうになったのだ、と。看守たちも、このどじょうの出現を大いに恐れた、という話が伝わっています」
</p>
<br />
<br />

<h4>山本五十六元帥の兄 高野　譲（たかの ゆずる）</h4>
<br />
<p>
上野山の父と同じ看守長を務めた人物に、高野譲がいます。そして高野は、大日本帝国海軍連合艦隊司令長官であった山本五十六（いそろく）元帥の長兄でした。
</p>
<p>
五十六の生家高野家は、旧越後（現・新潟県）長岡藩士の家柄。名前は、生まれたときの父の年齢からつけられました。一方で山本家は、代々長岡藩の家老職をつとめた、1300石の名家でした。
</p>
<p>
1913（大正2）年、両親を亡くしたこの年、五十六は海軍大学校に入学。そして在学中の1915年、旧長岡藩主牧野忠篤子爵らの口添えで山本家を相続することになります。1916年（大正5年）12月、海軍大学校を卒業。少佐の時代には米国ハーバード大学へ留学するなどエリートコースを経て、日米開戦の口火となった真珠湾攻撃（1941年12月）の総指揮を取り、1948年春、パブアニューギニア上空で戦死するまで、太平洋戦争の第一線を率いました。
</p>
<p>
五十六に比べて譲の生涯は詳しくわかっていません。熊谷正吉さんの研究によれば、高野はすでに1881（明治14）年の樺戸集治監開庁のころから月形に移り、月形村字旭町にあった集治監の幹部官舎に住んでいました。筋向かいには集治監筆頭書記の徳末楯夫がいて、ともに月形潔典獄のサポートに当たりました。
</p>
<p>
高野は、旭川までの開拓に決定的な役割を果たした上川道路の開削や、当別道路、増毛道路の工事を指揮して、北海道にとっても重要な仕事をなしました。<br />
　また、明治の激動に見舞われて行き詰まった郷里の農民たちによって結成された、「北越殖民社」を月形村知来乙（ちらいおつ）に迎え入れることにも尽力しました。同社はやがて江別への再入植に取り組みますが、特筆される成果を収めた団体として、北海道開拓史に重きをなす存在です。
</p>
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		<title>郷土史研究家 熊谷正吉さん インタビュー3</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Nov 2011 02:31:27 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<title>樺戸に名を残す囚徒列伝</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Nov 2011 01:52:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[贋札づくりで無期徒刑に服しながら月形の地でも多くの絵を残した熊坂長庵や、難攻不落の集治監から脱走を繰り返した伝説の脱獄囚五寸釘寅吉…。彼らのほかにも、樺戸の監獄にはその逸話が長く語り継がれた囚徒たちがいます。郷土史家熊谷 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<dl class="w600 center">
<dt><img src="http://www.tsukigata.net/wp/wp-content/uploads/2011/11/image001.jpg" alt="" title="image001" width="600" height="300" class="alignnone size-full wp-image-227" /></dt>
</dl>
<p>
贋札づくりで無期徒刑に服しながら月形の地でも多くの絵を残した熊坂長庵や、難攻不落の集治監から脱走を繰り返した伝説の脱獄囚五寸釘寅吉…。彼らのほかにも、樺戸の監獄にはその逸話が長く語り継がれた囚徒たちがいます。郷土史家熊谷正吉さんの調査などをもとに紹介しましょう。
</p>
<br />
<h4>海賊房次郎</h4>
<p>
1910（明治43）年の夏、15年の刑期で収監された強盗犯大沢房次郎は、「海賊房次郎」の異名で知られていました。名前のいわれは、水の上でも中でも巧みに体が使え、プロの潜水夫にも負けないほど潜りの名人であったことにちなみます。
</p>
<p>
北海道が果てしのないほどの原生林でおおわれていた当時、樺戸監獄（明治36年から廃監の大正８年までこの名称）では、監獄より石狩川上流の札比内（さっぴない）分監で木材の伐採が盛んに行われました。一帯は広大な官林だったのです。切り出された大木はイカダに組まれて石狩川を下り、２里（約８キロ）下流の樺戸まで流送されます。そして樺戸の監獄波止場には、専用の水揚げ場がありました。房次郎はこの場所で水揚げ頭（かしら）として多くの囚徒たちに的確な指示を与え、危険な重労働を手際よく仕切っていたのです。
</p>
<p>
水揚げに従事する看守たちは、イカダがいま出発したという分監からの電話連絡を受けるや、すぐ「海賊を呼べ」と声を上げます。ふだんは器械工として働いていた房次郎は、その声で波止場に登場するのでした。房次郎は、当時としては堂々たる体つきの５尺６寸（約170センチ）。かつてふるさとの村相撲では大関をはっていました。入監当初は看守に反抗した時期もありましたが、自分にしかできない持ち場ができるとやがて模範囚になっていきます。
</p>
<p>
彼は1919（大正８）年の廃監まで在監して、その後は網走監獄に移されました。
</p>
<br />

<h4>破戒僧、大須賀権四郎</h4>
<p>
僧侶だった大須賀権四郎は、僧籍にありながら酒と女にふけり、そのために寺を追われた破壊僧。喧嘩がもとで人を殺し、15年の刑を負って樺戸にやってきました。
</p>
<p>
監獄での暮らしも悔悛にはほど遠いもので、1910（明治43）年の夏、第１耕地収穫舎で作業中に看守の目を盗んで逃亡。これは無期徒刑囚松本真一郎と共謀した脱獄でした。しかし山中に潜んでいるところを、その日のうちに見つかってしまいます。
</p>
<p>
学問のある大須賀は、書もよくし、法律の知識までも豊富でした。そのためにつねに看守たちに理屈をこねて反抗的な態度をとり、学を鼻にかけて嘲笑するような態度を見せることもしばしばでした。また同房の囚徒たちに悪知恵をつけて、監獄の規律を乱す言動をあおりました。
</p>
<p>
1913（大正２）年の早春。作業のない日曜日のことでした。囚徒全員が僧侶からの教誨（更生のための訓話）を受ける「総囚教誨」が教誨堂で開かれました。看守らは各監房を開錠して囚徒たちを集めますが、大須賀はただひとり、へりくつをこねて出席をしぶります。苛立ちがつのった里見監房主査は、木刀で彼を一撃。大須賀も抵抗しましたが、この一撃が致命傷となって絶命してしまいました。曲がった道に進まなければひとかどの僧侶となっていたであろう大須賀は、わずか30歳で篠津の囚人墓地に眠ることになったのです。
</p>
<br />

<h4>スリの名人、玉木勘四郎</h4>
<p>
ほぼ同じ時代。ちょっとユーモラスな逸話も伝えられています。
</p>
<p>
1907（明治40）年、なんと前科25犯というスリの名人、玉木勘四郎がやってきました。９歳のときからスリに手を染めた勘四郎は、強盗殺人を重ねたような凶悪犯とはほど遠い風貌で、全身に役者の顔の入れ墨をした優男（やさおとこ）でした。
</p>
<p>
「スリの大親分が来る！」という事態は、看守はもとより囚徒たちのあいだにも大きな話題を呼び、注目が集まります。監獄に到着した彼に新人の須藤看守が図にのって話しかけました。
</p>
<p>
「お前はスリの名人だそうだが、どうだ俺のこの懐中時計を掏（す）ることができると思うか？」
</p>
<p>
玉木はふてぶてしく、「すったら何をくれるんですかい？」と答えます。売り言葉に買い言葉。須藤看守は、「ああお前の好きなものをくれてやるさ」と答えました。典獄をはじめとした上層部は知らない、秘密の取引です。
</p>
<p>
それから須藤看守は、監内でも野外の作業現場でも玉木の姿を見るとすぐ遠ざかり、ふところの時計をしっかりと握りしめるようになりました。こうすればすられるわけはありません。
</p>
<p>
しかしなんということでしょう。１週間もたったころ、玉木が須藤の前に現れ、「はい、旦那の時計ですぜ」と懐中時計を差し出したではありませんか。
</p>
<p>
須藤看守の驚きと悔しさはいかばかりだったでしょう。
</p>
<p>
玉木は約束だからと、砂糖がほしい、食事に玉子をつけてくれ、などと欲しいものをねだります。はじめはしぶしぶ従っていた須藤看守もさすがにこれ以上は許されないと感じ、「もうこれでおしまいだ」、と強く申し渡しました。すると玉木は、「最後に典獄に会わせてくれろ」とゴネました。典獄に会って、新米の看守がこんな悪ふざけをしました、と訴えるつもりだったのかもしれません。須藤は玉木をなんとかなだめすかします。<br />
さて、そもそも玉木はどのように看守の懐中時計をすったのでしょう。実は実際に犯行に及んだのは、玉木の手下になって働いた別の囚人でした。須藤は、玉木に用心するあまりに、手下が自分に近寄ってことに及ぶのに気がつかなかったのです。
</p>
<p>
スリはつねに仲間との連携で動くという常識を、若い須藤看守は知らなかったのでしょう。
</p>]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>花山貯水池に眠る事件</title>
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		<comments>http://www.tsukigata.net/history018/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 05 Oct 2011 09:03:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[月形町には、月形ダムや札比内貯水池、豊ケ丘貯水池、花山貯水池など、樺戸山系の山に向かっていくつもの貯水池があり、まちの農業を支えてきました。その中で花山貯水池は、集治監に最も深く関わるエピソードをもつ貯水池として知られて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>月形町には、月形ダムや札比内貯水池、豊ケ丘貯水池、花山貯水池など、樺戸山系の山に向かっていくつもの貯水池があり、まちの農業を支えてきました。その中で花山貯水池は、集治監に最も深く関わるエピソードをもつ貯水池として知られています。</p>

<p>花山貯水池は1913（大正2）年、北農場地区の造田を進めるために造られました。その後改修が重ねられて今日の姿となりましたが、この名前は、集治監の看守だった花山友吉にまつわる、ある恐ろしい事件に由来するのです。月形町郷土史研究の第一人者熊谷正吉さんの話などをもとに綴ってみましょう。</p>

<p>事件は、1909（明治42）年５月29日の夕方に起こりました。囚徒たちはその日も労役に出ていましたが、一日の仕事が終わり、看守に率いられて監獄（当時は「樺戸監獄」という名称）に帰るところでした。</p>
<p>菊地文治看守に引率された34名のうち、強盗罪で17年の刑期を受けていた矢野善斉と、強盗傷人によって15年の懲役につく雨宮浜十が、すきを見て逃走してしまったのです。</p>
<p>監獄ではすぐさま非常線を張り、看守総出で一帯の捜査を開始。しかしふたりを発見することはできませんでした。</p>

<p>看守の花山友吉は、その日はたまたま非番でした。そして私用をすませて帰宅する途上で、偶然この逃走囚を見かけます。目立つ赤い服を着て顔もよく知っている囚徒を見逃すわけはありません。</p>
<p>勤務中であればサーベルや捕縄など七つ道具を持っているのですが、この日は丸腰。しかし花山は果敢につかみかかりました。ふたりも命がけです。鬼の形相で逆に花山に襲いかかり、道路脇に引きづりこみます。花山は顔と頭をめった打ちにされ意識を失いました。</p>
<p>もはや後に引けなくなったふたりは、花山を殺害してしまいました。捜索隊が遺体を発見したとき、恐ろしいことに喉（のど）と目にはイタヤの枝が打ち込まれていたといいます。</p>
<p>現場に囚徒の姿はもちろんありません。消防団員なども協力してさらに規模を増した山狩りが行われましたが、ふたりのゆくえはようとして知れないまま。</p>

<p>しかし６月３日の夜。ふたりは、監獄からわずか４丁しか離れていない北農場の掛畑亀蔵の牛舎のそばに現れます。牛の世話をしている奉公人の少年が、積みあげた丸太の上で小便をしようとしてふと下を見ると、赤い服が見えたのです。</p>
<p>脱走事件は村中に知られていましたから、少年は「おじさんは囚徒か？」と声をかけます。と同時に、ふたりは持っていた金てこで襲いかかってきました。</p>
<p>恐怖に駆られた少年が思い切り叫ぶと、すぐさま警戒中の看守の呼び子（小型笛）が鳴り響きました。つづいて、あちこちで合図のピストルが空に乱射されます。農民たちも、鎌や鍬（くわ）、槍などを手に家を飛び出しました。</p>
<p>その中には、花山看守の長女で16歳の花山あきのの姿もありました。</p>

<p>ふたりは夜陰に乗じて、農場の脇を流れる農場川沿いに逃げました。追っ手もこれに気づいて流れの両側からじわじわと追い詰めます。果たして、川の中でササの葉のかたまりをかぶって息を殺しているふたりが闇の中にうっすらと見えました。囚徒にとっては、万事休す。</p>
<p>矢野善斉は川の土手を駆け上がろうとしましたが、途中で看守の岩山鈕治の剣に倒されます。岩山は仲間の仇（かたき）とばかりに、囚徒をめった斬りにしました。もうひとりの囚徒雨宮浜十も、看守部長の高野辰次郎に斬られ、足に重傷を負ったまま数丁逃げましたが、やがて月形小学校の裏の麦畑で一団につかまり、こちらもめった斬りにあいました。</p>

<p>郷土史家熊谷正吉さんは、1881（明治14）年から1919（大正８）年にいたる樺戸集治監38年に歴史において、「花山看守殺し」は最大の不祥事だった、と言います。そしてこの事件は最も凄惨（せいさん）な犠牲を出しました。</p>
<p>看守たちがよってたかって斬りつけたふたりの遺体は、骨まで断たれていたので持ち上げることができず、スコップで戸板に移して、監獄の医務室のとなりにあった屍室（ししつ）に収容されたのでした。</p>

<p>監獄では翌日の深夜、眠りについていた囚徒全員を起こし、廊下の両側に座らせました。そしてそのあいだを、第１監から第４監まで、戸板に載せたふたりの惨殺死体が見せしめのためにゆっくりと運ばれました。囚徒たちはあまりのむごい顛末（てんまつ）に言葉をなくし。恐れおののいたのでした。それからしばらく、脱走は絶えたといいます。</p>

<p>ふたりの遺体は、６月５日、納棺されて篠津山囚人墓地に埋葬されました。花山看守が殉職したあたりにはその後貯水池が造られ、看守の霊を慰める意味も込めて「花山貯水池」と呼ばれるようになりました。</p>

<dl class="w500 center">
<dt><img src="../wp/wp-content/img/history/1110_01.jpg" /></dt>
<dd>花山貯水池</dd>
</dl>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>剣術師範として赴任した永倉新八</title>
		<link>http://www.tsukigata.net/history017/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=history017</link>
		<comments>http://www.tsukigata.net/history017/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 13 Sep 2011 12:55:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[樺戸集治監にいた囚徒以外の有名人物としては、なんといっても幕末の新撰組にいた永倉新八があげられます。神道無念流を身につけた永倉は、新撰組で沖田総司に勝るとも劣らぬ剣の達人でした。明治になって彼は、杉村義衛と名をあらためて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>樺戸集治監にいた囚徒以外の有名人物としては、なんといっても幕末の新撰組にいた永倉新八があげられます。神道無念流を身につけた永倉は、新撰組で沖田総司に勝るとも劣らぬ剣の達人でした。明治になって彼は、杉村義衛と名をあらためていました。</p>

<dl class="w300 center">
<dt><img src="../wp/wp-content/img/history/1109_01.jpg" /></dt>
<dd>杉村義衛（永倉新八）</dd>
</dl>



<p>新撰組とは、京都における将軍警固と反幕府勢力鎮圧のために江戸幕府が組織した治安維持組織でした。その名を知らしめたのは、元治元年６月（1864年７月）に京都の旅館池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃した、いわゆる池田屋騒動です。この戦いで伝説的な働きをしたのが永倉新八でした。</p>
<p>永倉を含めた24名で創設された新撰組は、全盛期には200名を数える武闘組織となり、1867年10月の鳥羽伏見の戦いにはじまった戊辰戦争では、旧幕府軍に従軍します。周知のようにこの戦争は佐幕派にとってきびしい敗戦の連続で、1869（明治２）年５月に終結した箱館戦争では、榎本武揚率いる旧幕府軍がついに降伏。戦いつづけた新撰組には、土方歳三のように箱館で命を落とした者も少なくありませんでしたが、永倉はその前に組と袂を分かっていました。</p>
<br />
<p>1882（明治15）年、43歳の永倉は月形潔典獄に請われて開庁まもない樺戸集治監にやってきて、1886（明治19）年まで看守たちの剣術師範を務めました。</p>
<p>囚徒管理のためにこと脱走事件に当たっては刀（サーベル）を抜くことも辞さなかった看守たちにとって、剣道の修練は重要な日課でした。集治監にはそのための演武場があったのです。</p>
<p>永倉は、月形に赴任するにあたり、旧幕臣の大人物、山岡鉄舟に揮毫を請います。山岡は北辰一刀流千葉周作の門人で、「幕末の三舟」（勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟）のひとり。勝海舟の使者となり、勝と西郷隆盛の会談の実現に尽力して江戸城無血開城を実現させ、維新後は明治天皇の侍従となっていました。勝海舟の部下で槍術の大家であった高橋泥舟は、山岡の義兄にあたります。</p>
<p>書家としても知られた山岡は杉村の願いに応え、「修武館」の額を贈ります。以後集治監の演武場は、「修武館」の名を冠することになりました。</p>

<dl class="w300 center">
<dt><img src="../wp/wp-content/img/history/1109_02.jpg" /></dt>
<dd>旧樺戸集治監本庁舎に展示されている「修武館」の額（複製）</dd>
</dl>

<p>この額は樺戸監獄が1919（大正８）年に廃監となるまで道場に掲げられていましたが、廃監に伴い公文書類とともに旭川監獄に引き継がれ、現在は旭川刑務所の演武場に掲げられています。月形樺戸博物館では、この複写を見ることができます。</p>
<br />
<p>永倉新八（杉村義衛）の人となりをまとめておきましょう。</p>
<p>永倉は1839（天保10）年、松前藩の江戸定府取次役、長倉勘次の次男として、同藩の上屋敷（江戸下谷三味線堀、現在の台東区小島2丁目）で生まれました。父は松前藩江戸詰の藩士だったのです。</p>
<p>1846（弘化3）年、７歳で岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。4年目に師が亡くなると岡田助右衛門に師事して、15歳で切紙（初等の免許）、1856（安政3）年に18歳で本目録（修了証）を得ると、元服して新八と称します。19歳になると自由な剣術修行を求めて松前藩を脱藩、長倉を永倉と改めました。名を替えたのは、脱藩によって親族に迷惑がかからぬようにするため、と言われます。</p>
<p>本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学んだのち、友である市川宇八朗（後の靖兵隊隊長芳賀宜道）と武者修業の旅に出ました。やがて江戸に戻ると心形刀流伊庭軍平の門人坪内主馬に見込まれ、坪内道場師範代を勤めるうちに近藤勇と知り合い、近藤勇の道場、天然理心流「試衛館」の食客となります。</p>
<p>江戸幕府が14代将軍家茂の上洛警護をする浪士の組織「浪士組」を組織すると、永倉は近藤らと共に参加。これが24人の「壬生浪士組」となり、やがて近藤が主導する「新撰組」に発展しました。永倉は副長助勤、二番隊隊長、撃剣師範などの要職を歴任し、組のリーダーのひとりとしてありつづけました。</p>
<br />
<p>しかし鳥羽・伏見の戦い（1868年）のあと江戸に退却後、永倉は近藤らと袂を分かち、靖兵隊（靖共隊）を結成。米沢藩に滞留中に会津藩の降伏を知り江戸へ戻ります。このころすでに江戸幕府は大政奉還（政権を天皇に返上）を行っていましたが、かつての同志土方歳三らは、まだ箱館戦争の榎本軍に合流していました。明治の世となり、永倉は松前藩家老下国東七朗によって帰藩を許され、江戸下谷三味線堀の藩長屋に居を構えました。しかし箱館の地では、旧幕府方と新政府軍による最後の戦いが最終局面を迎えていました。</p>
<br />
<p>1870（明治３）年には松前に移住。34歳で藩医杉村松柏の娘、杉村よねと結婚して杉村家の養子となります。1876年には、かつての同志らの霊を慰めるために尽力して、東京板橋に新撰組殉難者墓碑を建立。ここは、近藤勇が斬首された板橋刑場（仙道板橋宿近く）にほど近い地でした。その後彼は小樽へ渡り、そこから1882（明治15）年、樺戸で剣術師範を務めたのです。</p>
<p>集治監退職後は東京の牛込で剣術道場を開きましたが、1899（明治32）年、妻と子供が北海道小樽色内で薬局を開いていたため、再び小樽へ。1915（大正４）年に77歳で亡くなるまで、小樽で暮らしつづけました。</p>
<br />
<p>日本史の波乱の激動とともにあった永倉（杉村）の生涯の中で、樺戸集治監での４年間はどんな意味を持っていたのでしょう。戊辰戦争や新撰組の顛末（てんまつ）を考えるにつけ、興味はつきません。</p>]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>郷土史研究家 熊谷正吉さん インタビュー2</title>
		<link>http://www.tsukigata.net/history-m004/?utm_source=rss&#038;utm_medium=rss&#038;utm_campaign=history-m004</link>
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		<pubDate>Tue, 13 Sep 2011 12:43:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[Flashをご覧いただけないかたはこちらから]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[		
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		</item>
		<item>
		<title>伝説の脱獄囚、五寸釘寅吉</title>
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		<pubDate>Mon, 08 Aug 2011 12:06:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[今回から、熊谷正吉さんの話などをもとに、樺戸集治監をめぐる印象的な人物やエピソードを綴っていきましょう。まずあげたいのは、樺戸で最も有名な囚徒のひとり、五寸釘寅吉こと西川寅吉です。 五寸釘とは、彼の脱獄にちなむ異名。いわ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>
今回から、熊谷正吉さんの話などをもとに、樺戸集治監をめぐる印象的な人物やエピソードを綴っていきましょう。まずあげたいのは、樺戸で最も有名な囚徒のひとり、五寸釘寅吉こと西川寅吉です。
</p>
<br />

<p>
五寸釘とは、彼の脱獄にちなむ異名。いわれについて熊谷さんは、伊勢国松坂本町（現・松阪市）の老舗質店に押し入った事件がもとだ、といいます。寅吉は、松坂にほど近い三重県多気郡の生まれでした。
</p>
<p>
ある夜更け、寅吉は松坂の質店三好屋に盗みに入ります。蔵はちょうど修理中でした。主の部屋に忍び足で近づくと、かねてから寅吉を追っていた者が犯行に気づきます。寅吉もこれを察知。逃げるために２階に駆けあがり、ひらりと地上に飛び降りました。しかし地面に着いた瞬間、信じられないほどの激痛が走ります。工事中であったために散らばっていた、五寸釘が打ち付けられた板を踏み抜いてしまったのです。５寸とは約15センチです。
</p>
<br />

<p>
寅吉は手当をする間もあらばこそ、とにかく逃げ続け、２里半（約10キロ）ばかり先でようやくひと息つきました。板きれを抜こうと草むらで星明かりを頼りに足を見ると、釘は甲を優に貫通しているではありませんか。必死の思いで釘を抜くと卒倒するような痛みと出血に耐えながら、とにかく身をかくして手当ができる場所をさがしました。幸い親の代から親しくしている家が近く、這うように駆け込みます。しかし、傷を焼酎で洗い回復を待っている日々に、寅吉は御用となってしまいました。このできごとが、やがて1899（明治32）年に東京の都新聞の探偵実話シリーズに「五寸釘寅吉」として取り上げられ、のちに本にもなると、寅吉は全国的な有名人となりました。これが「五寸釘寅吉」のいわれです。
</p>
<br />
<p>
寅吉が最初に樺戸に収監されたのは、1889（明治22）年９月。35歳のときでした。神奈川県北多摩郡の酒荒物店に凶器をもって押し入り、10日後に情婦のもとに潜伏しているところを捕まったのです。15年の懲役刑を負っての樺戸入りでしたが、彼の犯罪歴は、しかしそのはるか前にさかのぼります。
</p>
<br />

<p>
西川寅吉は1854（安政元）年、三重県多気郡上御糸村の貧しい小作農の４男に生まれました。19歳で結婚してほどなく父となりましたが家庭の複雑な事情があり、21歳のときに長兄との喧嘩から傷害事件を起こし、２年の刑を言い渡されました。入ったのは、度会（わたらい）県（現・三重県）の度会刑務所。
</p>
<p>
刑期を終えて帰郷しても、寅吉の人生の展望は晴れませんでした。その後すぐ上の兄ら悪い仲間に引きずられるように強盗や傷害事件をくり返し、横浜監獄署と三重監獄署に入りました。人生最初の脱獄はこの横浜監獄の時代。移送中に看守の目を盗んで逃げました。実家の地主への恨みがもとで起こした放火と傷害で捕まって入った三重監獄でも、仲間とともに脱獄。そのあとで起こしたのが、五寸釘を刺したまま質店から逃亡した、あの事件でした。
</p>
<p>
寅吉は東京の小菅（こすが）集治監にあった、北海道送りの囚人を集める仮留監に入れられ、その後北海道に渡り、市来知（いちきしり・現在の三笠市）の空知集治監に移されることになりました。
</p>
<br />

<p>
空知集治監は、樺戸集治監とともに恐れられたさいはての監獄です。しかし寅吉は、ここでも作業中に看守の目を盗み、まんまと脱獄に成功してしまいました。すぐ全国に指名手配となりましたが、逃げ続けます。そして1889（明治22）年の秋、神奈川県で強盗を働いたところをつかまり、樺戸にやって来ました。
</p>
<p>
捕まったといっても寅吉は、原籍不明の西川安太郎という人物になりすまし、指名手配犯であることは隠していました。だから樺戸では前刑のない者が入る、一般の雑居房にいれられたのです。花札の名人でしたから、やがて牢の中で一目おかれることになりました。しかしあるとき、かつて空知集治監にいた看守に正体を見破られるとついに独房に移され、足首に鉄丸をつけられました。
</p>
<br />

<p>
そのころ囚徒たちは、上水道の堰堤（えんてい）補修の工事についていました。この作業中寅吉たちは看守を襲い、ニシン景気にわく厚田へと逃走します。しかし５日目につかまり、結局監獄に戻されました。牢屋はもちろん監視が厳重な独居房で、今度はとうとう無期徒刑（懲役）。独房にいるあいだは、一番重い１貫目（3.75キロ）の鉄丸がつけられました。
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ここで寅吉は、再び脱獄に挑みます。外役から帰って鉄丸がつけられる一瞬のすきを狙い、かがみ込んだ看守を思いきり蹴り上げ、気絶させました。すばやく房を飛び出して看守を閉じ込めると、廊下を走り抜けて外に出ます。途中の水場で赤い獄衣を脱いで濡らしました。
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目の前には18尺（約5.5メートル）の高屏がありました。持ったまま獄衣を思い切りたたきつけ、その吸着力を足場に屏をよじのぼり、ついに越えてしまいました。さてその先をどうするか。石狩川の波止場にははるかな対岸にカゴを渡すためのケーブルがあり、寅吉はこれをサルのように伝って渡りきります。なんという体力と運動神経でしょう。こうして彼は、脱獄は絶対に不可能と言われた樺戸の監獄から２度目の脱出に成功したのです。
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樺戸のあと再び彼の記録が現れたのは、強盗で捕まって収監された宮城集治監でした。ここで彼は井上銀次郎という偽名を使い、刑を終えたようです。しかしその後また凶悪な強盗を繰り返し、ついにお縄となって無期刑囚として埼玉監獄署に入りました。そして東京仮留監から北海道集治監釧路分監（標茶町）に送られます。この分監長はかつて空知集治監にいて、寅吉をよく知っていました。40歳を前にさすがに体力と気力は衰え、これ以後の寅吉はおとなしく刑に服すことになります。９年後に網走分監（のちの網走刑務所）に移され、かつての神仏をも恐れぬ極悪非道な強盗犯から一変した従順な作業態度は、たぐいまれな伝説をもった模範囚として、人々の畏敬を集めるまでになっていました。そうして1924（大正13）年の秋、寅吉は刑期を短縮され晴れて自由の身となるのです。故郷の妻はすでに亡く、72歳になっていました。
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釈放のニュースは多くの新聞に取り上げられ、利にさとい興行師は「五寸釘寅吉劇団」という一座を作り、寅吉を主役に全国を巡業しました。この間彼は、２度月形を訪れていますが、監獄はすでに廃監となっていました。かつて２度も脱獄をなしとげた特別の監獄に、何を思ったでしょう。
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寅吉は昭和のはじめには息子のいる故郷の三重に帰り、畳の上で安らかに88歳の大往生をとげたのでした。
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<dl class="w300 center">
<dt><img src="../wp/wp-content/img/history/1108_01.jpg" /></dt>
<dd>巡業していたころの寅吉のプロマイド</dd>
</dl>

<dl class="w400 center">
<dt><img src="../wp/wp-content/img/history/1108_02.jpg" /></dt>
<dd>月形樺戸博物館に展示されている晩年の心境をうたった寅吉直筆の書<br />
「西に入る夕日の影のある内に罪の重荷を落ろせ旅人」と書かれています</dd>
</dl>
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		<title>篠津山囚人墓地に眠る人々</title>
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		<pubDate>Thu, 14 Jul 2011 00:57:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[歴史物語]]></category>

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		<description><![CDATA[前回につづいて、月形の郷土史研究家、熊谷正吉さんの話を続けましょう。 集治監で在監中に死亡した囚徒の法要が行われるようになったのは、時代をくだって1899（明治32）年のこと。これには死亡囚の慰霊と、在監囚徒への教育的配 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>前回につづいて、月形の郷土史研究家、熊谷正吉さんの話を続けましょう。 </p>
<p>
集治監で在監中に死亡した囚徒の法要が行われるようになったのは、時代をくだって1899（明治32）年のこと。これには死亡囚の慰霊と、在監囚徒への教育的配慮がありました。春と秋、彼岸の中日（春分の日と秋分の日）に、札比内（さっぴない）分監の囚徒たちも参加して、構内の教誨堂で挙行されたのです。 
</p>
<p>
典獄による、法要の意味や囚徒の心得の訓辞があり、僧侶たちの読経がつづきます。そして典獄以下職員の焼香。前もって選ばれていた、作業成績などが優秀な囚徒も焼香をすることができました。朝８時30分にはじまり10時半には終わりますが、この日は労役がなく食事も特別食だったので、囚徒たちにとっては実にありがたい日でした。 
</p>
<p>
囚徒が亡くなっても、しばらくのあいだ戒名はいっさい付けられていませんでしたが、1902（明治35）年からは、真宗大谷派の僧侶により「釈□□」という戒名がつけられるようになりました。 
</p>
<p>
樺戸集治監では、1881（明治14）年の開庁から1919（大正８）年の廃監まで、事故や病気のために1,046名もの囚徒が命を落としています。主な死因をあげると次のようになります。<br />
　・心臓麻痺804人　・衰弱60人　・看守による斬殺41人<br />
　・作業中事故33人 
</p>
<p>
斬殺は逃亡などの企ての結果で、そのほかは道路開削など危険で苛烈な作業が原因です。そしてこの1,046人のうち、肉親に引き取られた遺体はわずか24体。実に1,024人が無縁仏となりました。これは、囚徒の大半が「内地」（本州以南）出身者で、交通の便が悪すぎたこと、そして否応なく貼られた極悪人のレッテルが、遺族の引き取りを拒むことにつながったと思われます。 
</p>
<p>
遺体は当初赤川地区に仮埋葬され、その後、月形市街から３キロほど離れた南耕地の一角に移されました。今日の「篠津山墓地」です。
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<dl class="w500 center">
<dt><img src="../wp/wp-content/img/history/1107_01.jpg" /></dt>
<dd>篠津山墓地</dd>
</dl>

<p>
亡くなった囚徒の遺体は一度土葬されますが、満３年を経過して引き取り手が現れなければ囚徒の手で掘り出され、薪を積みあげて荼毘（だび）に伏すことになります。３年のあいだに遺体は白骨化していきますが、掘り出されて焼かれた骨は地下に合葬されました。1970年代初頭まで、篠津山墓地には、616人を葬った３基の合葬碑と、いまだ合葬されていない406人が、最初に埋められたままの状態となっていました。 
</p>
<p>
今日の篠津山囚人墓地には個人ごとに石碑が建っていますが、これは1981年度から３年間で整備されたもの。1972年、前述したように旧樺戸監獄本庁舎を転用していた月形町役場は「北海道行刑資料館」として生まれかわります。これに際して熊谷正吉さんらが進めた資料調査の過程で、監獄の合葬簿や墓地図面が発見されました。囚徒の過去帳はまちの北漸寺と円福寺にありましたが、墓地に関する資料は、廃庁後に資料一式が移されていた旭川監獄（現・旭川刑務所）にあったのです。当時町の住民課長を務めながらこの仕事に当たった熊谷さんは言います。 
</p>
<p>
「それまでの篠津墓地は野草が伸び放題で原野のような状態で、私たちは心を痛めていました。見つかった名簿と図面を照合することで、まだ合葬されていない方々の名前と埋葬場所が確認できましたから、草を刈ってササを焼き払うことにしました。はたして、埋葬してできた土饅頭（どまんじゅう。土の盛り上がり）がいくつもいくつも出てきました。町の予算でひとつひとつ、戒名をしるした墓標を建てることにしました。」 
</p>
<p>
墓標ははじめ木製でしたが、数年経つうちに腐食が進んだため、現在に残る石碑となりました。樺戸集治監が開庁した９月３日には、毎年ここで多くの来賓を迎えながら、月形町主催の「樺戸監獄物故者追悼式」が盛大に行われています。北海道開拓の先兵として、多くの開拓者や屯田兵などを迎える基盤づくりに力を尽くした囚徒たち。彼らに、厚い慰霊と感謝の心がささげられます。 
</p>
<p>
知識がなければ、一般に囚徒たち忌み嫌われる存在です。月形に生まれ育った熊谷さんは、そうした意識を捨てて、囚徒たちとその歴史背景を正しく知ってほしいと、歴史研究を続けてきました。 
</p>
<p>
「私の祖父は樺戸集治監の看守でした。祖父は早くに亡くなりましたが、私は母から、集治監にまつわるいろいろな話を聞いて育ちました。特に冬の夜など、母は恐ろしいけれど心ひかれる、集治監で起こった出来事を繰り返し話してくれました。私は大人になってそれを思い出しながらノートに書き出し、本にまとめることができました（『樺戸監獄』北海道新聞社・1992年）」 
</p>
<p>
1972年に北海道行刑資料館ができて、そのあとすぐ墓地の整備が進められて本当によかった。これで囚徒たちへも、最低限でもなんとか顔向けができる—。熊谷さんは心の底からそう思ったといいます。 
</p>
<p>
「私が通った月形小学校は、囚人たちの手で建てられたものでした。あるとき体育大会でよそのまちの学校に行って、驚きました。作りがぜんぜんちがう。月形小学校の方がはるかに立派だったのです。だから私たちは、囚人の人たちはすごい仕事をしたんだな、と実感しました。年を経て集治監のことが分かってくればくるほど、自分たちは囚人たちのことを後世にきちんと伝えなければならない、と思うようになりました。私がいまでも月形樺戸博物館でボランティアガイドを務めているのは、そうした思いからなのです」 
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<p>
お盆の季節など、かつて政治犯として月形に来た人々の子孫や関係者が、博物館を訪ねてくることがあります。熊谷さんは86歳のいまでも、そうした方々の要望に応えて、墓地やかつての監獄農場跡などを案内しています。 
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<p>
熊谷さんは、これまでの功績が認められ７月１日付けで、月形樺戸博物館名誉館長に就任しました。
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