開拓の基盤を作った囚人道路
月形潔の跡を継いで二代目典獄となったのは、長州藩出身の
1883(明治16)年に安村は集治監典獄となり、1885(同18)年8月、月形村に赴任しました。 この直前の7月、彼の月形での針路を決定づける出来事がありました。 時の最高実力者である伊藤博文(この年の12月に初代内閣総理大臣就任)の側近であった太政官大書記官金子堅太郎が、北海道各地を視察した上で政策を建白したのです。 当時の北海道は、開拓使が廃止されたあと三県一局(札幌、函館、根室県と、農務省事業管理局)の行政区分となり、縦割り行政の弊害や、大蔵卿松方正義が行った緊縮財政(松方デフレ)などによって、開拓の諸事業は停滞していました。 金子来道の目的は、そうした状況の打開にありました。
米国ハーバード大学法学部を卒業し、のちに大日本帝国憲法(1889年発布)の起草にも関わった金子は、このときの調査でまとめた「北海道三縣巡視復命書」の中で、札幌農学校や豊平館、葡萄酒製造、師範学校などを 「最モ殖民地ノ急務ヲ鑑ミザルモノト云フベキナリ」と指摘し、北海道には過ぎたるもの、と決めつけています。 さらに注目すべきは、囚徒の使役に関する一節です。 金子は、「囚徒らは道徳にそむいている悪党であるから、懲罰として苦役させれば工事が安く上がり、たとえ死んでも監獄費の節約になり、一挙両得である」という意味の主張をしました。
1886(明治19)年1月、三県一局が廃止されて北海道庁が設置されると、樺戸集治監は道庁長官の指揮下に入ります。
この時点で北海道には、
上川道路は空知集治監との共同事業となりました。
石狩川の大支流である空知川を境に、そこから忠別太までは樺戸集治監が、空知川から市来知までは空知集治監が担当します。
作業は200人の囚人を一団として、3里ごとに外役所を設けながら突貫作業で進められました。
夜も眠れぬほどおびただしい
上川道路ができると次はオホーツク方面、旭川から北見峠を越えて網走へと北見道路の工事が進められます。 明治政府には、近代国家建設のために北海道開拓を一刻も早く進め、北方からのロシアの脅威に備える必要がありました。 この工事もまた空知集治監と共同で進められ、1890(明治23)年に釧路集治監分監として設置された網走囚徒外役所(最寄村・現網走市)からも多くの囚徒が動員されました。 樺戸の囚徒たちは主に橋や舎屋の建設に当たりました。
全長217キロ以上に達したこの道は、上川道路にも増して難工事の連続。 囚人労働史上最も悲惨な事例とされています。 ここでも200人を一団として3~4里を一区域としましたが、割り当てを早く終えた組に次の工区の選択権を与えるという方法が取られました。 結果、空知と釧路の各組の看守間で激烈な競争が起こったのです。 囚人たちは夜明け前に叩き起こされ、逃走防止のために二人一組の連鎖をかけられました。 看守たちはピストルとサーベルで威嚇します。あげくに寒さや食糧不足から水腫病が大量発生。 北見ではわずか半年間に、出役した1150人のうち900人以上が発病して180人以上が死亡。 逃走を企てて斬殺される者も続出しました。屍はしばらく、風雨にさらされるままにされたといいます。 やがて土がかぶせられましたが、のちにそうした「土まんじゅう」が掘り返されると、土に帰りつつある骨と共に、まだ原型を保った鉄の鎖が出てくるのでした。
安村は1889(明治22)年1月から、樺戸、雨竜、上川三郡の郡長を兼務することになり、監獄の責任者に加えて地域の行政のトップともなります。 この時期上川道路や網走道路のほかにも、樺戸と市来知を結ぶ樺戸道路、月形と増毛を結ぶ天塩道路などが樺戸集治監の囚徒たちの手で開かれていきました。
安村典獄の在任期(1885~1891)は、北海道開拓の最初の屋台骨となる幹線道路が急ピッチで開かれた時代であり、 その大部分を担ったのは、「赤い人」、すなわち集治監の囚徒たちでした。
1891(明治24)年に上川の永山、翌年には東旭川、93年には当麻に、それぞれ屯田兵400戸ほどの入植がありました。 上川以北にようやく開拓の斧が下ろされるようになったのです。それを可能にしたのは、囚徒たちが命と引き替えるように造った上川道路でした。 札幌と旭川が鉄路で結ばれたのは、1898(明治31)年のことにすぎません。 札幌の月寒で編成された陸軍第7師団が旭川に進出したのも、鉄道に先がけて囚徒によって拓かれたこの道があり、旭川が道北の中心地として歩み始めていたからなのです。 北見、網走地方においても、屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整えたのは、同様に集治監の囚徒たちでした。
私たちはこの事実と意味を、決して忘れてはならないでしょう。
過酷をきわめた労働によって今日の北海道の

- 安村治孝
